宇治の川辺に立つと、恋しい人の面影が映ります。
夏の日の夕暮れもそうでした。暑さが弱まり一日の終わりを告げる夕暮れ時の風は、川面に静かな波紋を広げていくのです。波紋に消されてしまう面影を追い、私は又、歩きはじめるのです。何度壊れたら会えるのでしょう。若草色の香りに…。
16才の冬。学校の授業を抜け出し、多摩川の土手に座り、空を眺めていました。生きるって何なのか、生きる喜びってどんなのかしらと考えても、どこにも手がかりがないのです。
冬は若草色の香りもなく、心がときめくこともないのです。目の前を流れる川は、何も語ってくれません。じっとしていると虚しくなるばかりです。冬の木枯らし吹きすさぶ道を歩いていると、大きな木の下で男性生徒が5、6人集まり、ふざけ合っていました。灰色の制服を着ていました。私と同じ学校の生徒です。灰色の中にほのかに光る輝きをみつけました。その輝きの彼方に、美しい人の面影を見ました。冬の重い灰色空の下、私の内に生まれた恋。誰かわからぬその人を私は美しい人と呼ぶようになりました。木枯らしの音がいつになくうれしく聞こえ、胸の虚しさは暗闇に光が灯った様に薄らいでいくのです。
翌朝、冬の澄んだ空気にうすい日の光が唯一のぬくもりと感じ、各駅停車の電車に乗りました。まもなく降りる駅が近づいてくると、私の胸は緊張し、ドキドキします。一体何が起こるのでしょうか。いつもと同じ電車。いつもと同じ駅なのに、と思っても、胸の鼓動は強まるばかりです。電車が停まり、扉が開きました。電車を降り、ホームを歩き、動き出した電車を見ながら改札口に向かいます。改札口を出ると、反対側の電車が来ました。踏切を渡った時、反対側の電車から降りた人達が改札口にたくさんいます。皆、灰色です。私と同じ学校の生徒です。灰色には夢を感じません。又、いつもと同じ鉄筋校舎に入り、教室の机に座り、退屈な時間を過ごすのかと、連想させます。灰色の毎日は、耐えられないと思いつつ、ふと見かけたほのかな光。美しい人の横顔が浮かび上がるように見えてきました。昨日見かけた美しい人。
私は、時折駅でみかける美しい人を若草色の香りと思おうとしました。そうするだけでその時その時の退屈な時をまぎらわす事が出来たのです。だから同じ学校の生徒でありながら名前を知ろうともしませんでした。近づく事は、恐かったのです。夢は夢のままでいいのです。幻想は幻想のままでいいのです。近づいたら、夢は壊れ、幻想は消えてしまう事が恐いのです。現実の退屈さは耐えられないのです。友達はいつも勝手です。そしていつも私と同じ幻想ばかりを見ていました。
年が明け、夢の中で作り上げた美しい人を見かけ、胸ときめかし現実から逃れようとしていることにも飽きてきました。心ときめくふりをしても、ビクリともしない私の心を見ることが恐いです。その美しい人は、心は空っぽであることを私は知っているのです。であるならば、本当は美しいとは言わないでしょうが、私は、あえて美しいという言葉を使い美しいと思い込もうとしているのです。いつまでこの芝居は続けられるのだろうかと思いつつも、続けられる限りは続けていきたいと、美しい人と思い込むのです。
早春の風が吹き、早春の香りがする頃、もはや芝居は続けられなくなりました。私の心は、梅の花、桃の花、沈丁花の香りにときめくのです。この香りは、ずっと恋しいと求めている会いたい人を思い起こさせるのです。あたり一面、光輝く春になると、私はときめき出かけるのです。
春休みに入った3月の末、私は、会いたい人を求め京都へ行きました。古の風に吹かれ、遠い古の光景を見てみたいのです。そして未来は、きっと開かれる希望の光をみつけたいのです。
早春の京都。風は真実が埋められている虚しさ、悲しみを語っていました。遠い遠い昔には出会えませんでした。大覚寺にて大沢池を眺めていると、水の香りが清々しく、その香りに誘われ導かれる古の時。今は語れない真実。古の時に会えない今は未来もみえず、風は風であり、水は水であるという風景が何と虚しいことかと、うなだれ歩くよりないのです。古人の息吹に吹かれたいのです。生きていく為に・・・。真実を語れない世の中では生きている意味も見出せず、虚しさばかりが押し寄せるのです。
4月、新学期がはじまりました。クラス替えがあり、友達は、バラバラになりました。教室に入ると、美しい人がいました。それも私の隣の席に座っていました。私の夢はすっかり壊れました。会いたい人は、この人でないことを私の胸の内では、はっきりとわかっていました。メッキが剝がれるように美しい人という飾りをとったら中味は灰色です。
灰色の世界はときめきひとつ生まれません。