意識の枠が外れてからの私は、人に会えば血圧が上がり、今までのように一度に3つ、4つを同時にしようとしてもやれず、全く変わってしまいました。何ひとつ今までのようには出来なくなりました。まるで一歩歩くことから覚えているような感覚で、生きること全てに必死でした。いつも大きな山を乗り越えた時、数日後には生まれ変わったように元気に動けることを経験していましたので、この度も数日経てば良くなると見込んでいたのですが、体の状態も生き方も過去には一度も経験したことがない変化でした。「意識」はと言ったら、何が何だか訳がわからなくなっていました。8月の末から先生に頻繁に注意されていたことがあります。「気力だけで頑張っても、いつか突然倒れる時が来る。かえって人に迷惑かかることになる。半端なことはしていられない。食べる時は食べ、寝る時は寝る」ということをお会いする度に言われるようになりました。私は、何かをやり始めるとお腹も空きませんし、眠くもなりません。その頃は、ほとんど眠ることはありませんでした。けれど、大変エネルギッシュで、疲労感もなく、何でもやれる気力と気概にあふれていました。カフェ哲のドキュメンタリーサロンにて「この感じだったら、五女山の999段の階段も一気に駆け登れそう」と言っていた位です。登山が苦手な私にとり、五女山を駆け上がるというのは、何でも出来るという状態を意味していました。家の中でも駆け足で動き、何をするにも全力疾走で行なっていましたので、心模様の作品の数や私が行なったことの結果を見れば、誰もが驚く程のものでした。8月の意識が自由になるプロセスを経た9月の動きが楽しみでなりませんでした。
9月12日のいだきしん先生のコンサートにて、頭脳が覚醒する予兆があらわれました。前夜より眠くて眠くてたまりません。久しぶりによく眠り、当日を迎えましたが、眠くてたまらないのです。寝不足で眠い感じではなく、今まで目覚めたことのない頭脳が目覚めるとしか感じられない眠さでした。スタッフミーティングの時に、「私は目は開いているけれど、眠っているようなものなので、よろしくお願いします」と言いました。いだきしん先生のコンサートは、私にとり生命の表現の場であり、新しい世界をつくる最も大切な表現の場です。表現を奪われることだけは避けたく、入場チェックから姿勢を正すことは、生命賭けで行なっています。あの日だけは眠っている状況でしたので、正直不安でした。後に先生が、この話を聞いた時、皆はもっと眠っているよ、と笑っておられました。人間の生きている状態をあらわす適格な表現であると私も笑いはするものの、情けなくもあり悲しくもありました。
コンサートにて、今まで目覚めたことがなかったであろう頭脳の中心に光が生まれました。その時、私個人の人生においてではなく、人類史においてかつて目覚めることのなかったという表現が適格と感じました。人類史という言葉を使う時は、その根拠から証明も必要となりますので簡単には使えませんが、生まれつき運命や空間にあるものが見え、言葉にする感覚を持って生きてきた私にとって、正確に表現することで生きてこれましたので、人には言えなくとも自分の中では正確に表わすようにしています。この時の感覚は、どう考えても私個人の人生の出来事とは感じられませんでした。コンサートの後も眠くて眠くてたまらずに、本当は眠ってしまいたかったです。けれど、私はいだきをはじめ25年間、やることをやり切り眠る習慣が身についています。やることをやり切った時は、夜が明けていました。翌日の説明会の時に本社の3階まで昇る時に息切れがし、最後の数段を昇る時に足元が震え、やっと昇ったのです。いつも一気に駆け昇ってしまう私でしたので、少し気になっていました。心の中で「3階まで昇るのに息切れしていたら、五女山の999段の階段を駆け昇るなんて出来ないわ」と苦笑いしていました。少し前までは本気で大丈夫と感じる程の勢いがありましたので、少しショックを受けていました。そして14日の夜、倒れたのです。今だかつて覚醒したことのない頭脳が目覚めはじめたので、今まで私を守ることで意識の枠となっていた「高句麗」が外れる時が訪れたのです。8月の意識を自由にするプロセスとは、頭脳の覚醒へと導かれたのです。先生から、常に強く言って頂いたことは、「今までは守られてきた。これからは守ってくれるものはないんだから、自分一人で自分の体を守らなければいけない」ということでした。その真剣な言い方に、生命がかかっていると感じ、身も心も引き締まりました。油断してはいけないと肝に銘じました。それは、あらゆる場面でよくわかりました。私は、神経質で潔癖症ですので、子供の頃より熱があってもお風呂に入ってしまいます。今までも、変化の時体が不調でもそうでした。ところが、この度は、気分が悪くなり、倒れてしまうのです。今まで大丈夫なことが、この度は何ひとつ大丈夫なことはありません。日に日に事の重大さに恐れおののき、次第に不安が募るようになりました。私が一番恐れていたのは、高麗家代々の脳の病気です。血圧が高くなると不安になります。いだき講座を経験し、生まれつきの運命は改善されていますので、代々の病気になっている状態とはまるで生き方は違うという事はわかっていますが、気質や性分、傾向は「高句麗」そのものです。特に、昨年5月に開催された「高句麗伝説」100回記念コンサートの時に、東明王が生き変わり蘇えるという経験をしてからは、東明王は自分と感じる程一体でした。
続いて12月に、3度目の正直が叶い集安に行けました。道中、先生が「3度目の正直でやっと行く集安という地はよっぽど何かあるんだね」とおっしゃっていました。それも氷点下20度という厳寒の最中に行くことになったのです。集安から帰った私は、すっかり変わっていました。最も私らしいと感じ、今までの覆いを脱いだようです。集安では、戦に行く心構え、身仕度、戦の最中の心境まで細かくわかり身につきました。余計なものは何ひとつなく、何時何どきでもすぐに動けるように生き、最も心静かに全体を見ます。手がかりは天の声であり、天と共に生きることなくしてこの身は守られず、戦に勝つことはありません。心の中が透き通り、厳寒の中で感じた早春の風のようにさわやかでした。この感じは最も私が私である感じで、空間とひとつである心地良さが生命一杯広がり生きることが身についたのです。集安には好太王碑があります。私が最も好きで、共に在りたい王です。後日、いだきしん先生が撮影して下さった「好太王陵にての私」の写真を見た時、私は最も会いたい人に会えた喜びと感動で涙がこみ上げました。自分の姿を見て涙を流す光景は人が見たら異様に見えるかも知れませんが、現実に起こったことでした。この写真との出会いより私はすっかり変わってしまったのです。元々私と共に動く人は、「高句麗伝説」にて私が代々の王の詩を詠む時に好太王が一番私に似ていると言っていました。動き方も似ていると…、一気に動く動き方は誰もが憧れたと書物等に書かれています様に、私も憧れる気持ちがあります。けれど似ていると言われる時、又似ていると言う人も同様に感じる不安は、好太王は若くして王になり若くして死んでいるという生き様に想うことです。私の周りにいる人から、倒れた後に、いつも心の中に私は息もつかず駆け抜け、突然星になってしまうような感じが不安であったことを聞きました。自分もそうでした。そして私は倒れた後に、最も申し訳ないと生命に、そしてこの生命を活かしてくれる全ての存在に謝りました。自分の意識の傲慢なことを心底恥じ、申し訳なく思いました。私は子供の頃より、長く生きたくないと言っていました。自分の寿命を自分で決めているかのような意識や発言がいかに傲慢であり、けしからんことであるかを深く詫びました。私は、意識が自由になっていくプロセスの中で、気質について時々考えることがありました。私は、礼を欠いてまで生きていきたいとは考えず、常に礼を重んじ生きてきました。けれど現代人は、私からみると礼を欠いている人がほとんどで、いつも腹を立てている自分自身を持ちこたえていることは大変な労力が必要でした。私がとらえている礼とは、言ったり教えて身につくようなことでないこともわかっていました。真理に目覚め、真の自分で生き、本音をあらわし生きていけば自ずと身につく状態でした。腹を立ててもどうしようもないことであり、一人一人がそう成っていく気づきと経験の場であるいだき講座やコンサートの機会を作ることが答えでした。解決する時は、問題は浮き彫りになることもずっと経験してきました。長年のテーマであった気質について考えることが多くなっていました。意識の枠が外れ、私は自分の気質はどう考えても長く生きられないとよくわかりました。当然、今までも感じつつも、いつか答えは出ると考え、突き詰めて考えることはしてきませんでした。ある時、先生がお話し下さいました。東明王も国を作る程の力を持つ人で、天帝の子でありますから優れていますし、好太王も高句麗を一挙に拡大した人であり、そのダイナミックなエネルギーは尋常ではなく、誰の言うことも聞かず動きたくてたまらない人だった。たった一人の長老の言うことだけを聞き、動き続け駆け続けた人だった、等々…。けれどどんなに優れていても、どう見ても短命であること。私は泣けてきました。戦の世に生きていた人の悲しみを感じました。東明王も好太王も長く生きる生き方を知らずに亡くなりましたので、これからは私のことを守れない時が来たことと、同時に、守られずしても生きていく時が来たことを受け止めると、身も心も震えるのです。今の時代は、どんな人にとっても望み続けてきた生き方が実現出来るという、人類史上訪れることのなかった時を迎えているのです。生命在り迎えられ、これからも生きていけることの幸せを、幸せという言葉ではとても表現し尽くせることではありません。全ては、アルメニア「高句麗伝説」コンサートに向かっての尊い歩みを活かされ生き、歩ませて戴いているのです。
つづく