昨年2007年5月30日、シリアの首都ダマスカスにあるオペラシアターにての「高句麗伝説」100回記念コンサートにて、高句麗初代の王 東明王が生き変わり、蘇えったことを体感し、はっきりと認識出来た時に、私は自分の中だけでとどめることなく、人前でこの事実を表現するようになりました。その後も、何度も生き変わり蘇えるという表現をしてきました。よく多くの人に、一度蘇えったら蘇えり放しなので、何度も蘇えるものですかと聞かれます。私はこの様な経験がないのだとすぐにわかり、経験がない人に何と言ったらわかってもらえるのだろうと考えます。考えても、そのまま話すよりないのですが、私の人生も同様で、何度生まれ変わったと表現してきたことでしょう。2002年2月にイランの建国記念フェスティバルに招かれ、いだきしん「熱誠」ピアノコンサートの時に、私は第一音からとてつもないなつかしさに胸の奥が動き、涙がこみ上げました。何故か亡くなった母があたかもここに居るような感じがあり、涙ばかりがこみ上げ、泣き放しでした。ある瞬間、私は突然母の胎内にいる時に神と出会った瞬間が蘇えりました。事実であるか幻想であるか幻覚であるかと考えるまでもありません。この事は真であるというのは疑いもなくはっきりとわかりました。蘇えるとはこの様なことであるということを、驚きながらもよくわかる経験をしました。
コンサート後、私は生まれ変わったと感じ、今までの自分はすでになくなっていたのです。目に見える世界まで変わり、今まで何を見てきたのだろうかと感じる程、次元が変わっていました。これが真の自分と感じた時、今までの自分は何だったのかと考えました。
いだきしん先生にお会いしてからの人生は、本音で生き、健康で元気でどんどん人生が開かれました。今までの人生を真でなかったとは言えないのです。けれど、今が本当の自分と感じると、今まではと再び問うてしまうのです。後から、いだきしん先生にお話すると「変容」と教えて下さいました。質は同じでも、変化し、成長していくことと教えて頂き、納得しました。今、生命あり生きる私が、生まれ変わったように変容していくように、私には東明王や若光王も変容していくことをはっきりと感じられるのです。何度も生まれ変わり、何度も蘇えるのです。
今、私は「高句麗伝説」を通し、日々変容し、生まれ変わる自分と同様に、日々変容し、蘇える魂をあらわしていこうと考えています。今生きる人間も魂も共に生き変わり、蘇えり、変容していくプロセスをあらわしていくことは、きっと未来への希望になると感じています。