KEIKO KOMA

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更新日 2010-01-09 | 作成日 2008-03-30

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 京都での「高句麗伝説」を終え、腰が抜ける程の衝撃的経験は覚めやらぬままに京都の地を離れ、古の時の国創りの地に向かう道中見た風景に胸が締めつけられる程の懐かしさを感じました。胸にある懐かしさは涙となり、私は潤む瞳で古の光景を見たのです。はるか彼方の昔から、人に差し込む光は人の内で大きく育ち、みんなが生きる場を創ろうとするのです。愛おしく強く大きな存在は、いつの世も蘇えり共に在ります。天のはるか向こうが開かれ、全ての力、魂は蘇えり総動員体制となりました。
京都から帰った私は腰が抜けたまま、新しい世界の中心を探し続けました。折しもKEIKO KOMA Selectionに流れる、いだきしん先生の音楽は三味線の音と変わりました。胸が動くこともなく心が動くこともない三味線の音を何度も聞きながら、私は、落ち込んでいきました。いつもは、胸が動き、魂ゆさぶられ、涙までこみ上げてくる いだきしん先生の音楽に反応できない自分を悲しく感じたのです。多くの人は、魂ゆさぶられ、大変素晴らしい表現をされていました。私は心底うらやましく感じました。カフェ哲のサロンでこの話をすると、三味線は日本の楽器だからという声を何人かから聞きました。楽器の音色は、人間の生命の内にある記憶を呼び起こしてくれると、常々感じていました。自分が経験をしていない時代までもあたかもそこにいるかのように空気、風、香りまでも感じられるのです。多くの人が魂ゆさぶられる三味線の音に反応できないことに淋しさを感じ、何かが欠落しているのではないかと、考えると、今までのように元気一杯生きていけない気持ちになり、思いきり表現出来なくなりました。3日続いた三味線の音から、4日目にして私の大好きなギターの音に変わりました。ギターの音は不思議です。中学の時から毎日聞き、自分も習って弾いていましたので、身の内にある感覚が呼び起こされ、呼び覚まされ、心が動き、涙がほとばしり流れます。そして自分が経験していない時代のフェニキアの風、香りまで漂い、歴史の大ロマンを感じます。体中から喜びが生まれ、元気一杯になります。漠然とではありますが、ふと思い出したことがあります。1996年初めていだきしん先生の「文化と社会学序説」講座を受けさせて頂いた時に、豆腐にがり論のお話を伺いました。いつもは身の内を感じ、内面が開かれ、気付きや発見が多い いだきしん先生のお話に何ひとつ反応出来ない自分に驚きました。どんなに一生懸命聞いても、かすりもしないのです。気はあせり、不安になりました。講座が終わった時は、ひどく淋しく心が翳り落ち込み、力が失せてしまっていました。先生に正直に、日本の素晴らしい文化を身の内で感じられない自分の状態をお話しました。先生はすぐに「あなたは、もとが日本人ではないからね、記憶にないのだよ。けれど、あなたには大陸の優れた文化、精神があるのだからいいじゃない」とおっしゃって下さり、私は涙を流し、立ち上がれたのです。文化の違いは比較することではなく、触れ合うことで、ないものを知り、認め合っていける時に新しい何かが生まれていくと感じたのです。新しいことを生み出していける喜びを分かち合えると感じたのです。一筋の光がみえました。今回も比較し、淋しい気持ちは正直ありましたが、認めていった時にギターの音により魂ゆさぶられ、一挙に自分を取り戻しました。そして感動を表現出来る時に、比較することも淋しくがることもなく、喜びに変わりました。何か今までにない経験をしたように感じ、このプロセスがうれしく感じ、胸がときめいています。