昨年2007年12月に凍てつく寒さの中、高句麗の古都集安にある 丸都山城に行った時に見えた光景をよく思い出します。宮殿跡に立った時、とっても明るく眩しい光に包まれ、美しい高句麗の姫があらわれました。光がキラキラと輝く光景に美しく活発な姫を見ました。その時生まれた言葉、「あまりに光輝くその姿を敵は見えなかった」を詩にあらわし、後日「高句麗伝説」の時に詠ませて戴きました。最近、この言葉を繰り返し心の内で言っているのです。その時は、深い意味もわからずにいました。が、ずっと心にとめて過ごす日々の中でやっと深くわかるようになりました。今年3月にアルメニアへ行く機会にも恵まれ、生まれてはじめてふれる次元に大変戸惑い、次元ということを考えはじめました。
2006年にブルガリアでの「高句麗伝説」コンサートを前に、トラキアの地へ撮影に行った時に、「悪とは闘うことはない。まるで別次元のことなのだから」と古墳の中に入った時に聞こえるともなく、言葉が生まれました。当時の私は、大きな衝撃を受け、頭が真白になったあの時の瞬間を今でもよく覚えています。闘うことはないのは、素晴らしいとほっとし、喜んだのですが、別次元のことという意味が深くわからなかったのです。私は、悪には怒りを覚え、悪がまかり通る世の中では、人間は生きていけないと叫びたい程の怒りをいつも胸の内にためていることを、自覚しています。怒りや闘いによっては、解決はないとわかっていますので、いつも抑え込み、解決を考えます。愛によってより解決はないこともよくわかっていますので、愛から生まれる本音を表現することに集中し、徹していきます。けれど、悪をよく気にし、体をよく壊します。私は、ある時洗濯機のゴミを捨てる時に驚いたのですが、怒りを抑えたり、怒りを抑えられずに闘っている時は、ゴミが黒いことに気づいたのです。普段は汚れていませんが、怒っている時は、黒いのです。怒りや闘う意識は、自分の生命を汚していることを目の当たりにしました。
生命汚すことは解決ではありません。解決は別次元で生きることとわかってはいても、腹の立つことが多い社会の中で生きながら別次元で生きるとは、どういうことかをずっと考えてきました。今年に入り、アルメニアにて見た光景は「光は光」という言葉とし、あらわしました。光は光であります。闇とは交わらないのです。その時、私の生命が汚れているのは、闇と交わっているからとわかり、衝撃を受けました。真に光となり生きればよいと、はっきりわかりました。悪を見、怒りを覚える時、闇と交わっている意識なのです。光は生命の内に輝いています。どんな時も生命の内を中心に光は光とし生きることが解決であると道は示されました。5月12日の「高句麗伝説」の経験により管理、監視体制から解放され、私は、新しい次元がつくられたと実感しました。生命のまま生き、光は光とし、生きる世界は、今までの世界とはまるで次元が違うのです。
次元が違えば、敵はみることすら出来ないということを、はっきりとわかりました。宮殿に生きる姫の光輝く美しい姿が今蘇ります。