書き言葉と話し言葉
カフェ哲で開催していますNPO高麗主催のFATHERドキュメンタリーサロンは、世界平和への道のりとして、私達が世界各地で活動しているビデオをお見せし、平和の為に語り合う為の場です。開催したきっかけは、私がエチオピアやレバノンに行った時、ビデオを撮る様になりました。それは、一緒に行けない人達にも共に行った様に経験して頂ければと考えたことから、私が撮影したビデオを斉藤克哲さんが編集して下さり、カフェ哲のプラズマビジョンで上映したのです。感じたことを語り合う時、ふと生まれる本音が、行動に移す時に思いもかけず予想もできなかった展開となり、不可能が可能となる経験の連続により今があります。話し言葉は同じ場に人が集い、心触れ合う時生まれる本音の表現により道が作られるという尊い経験が出来ます。いだきのウェブサロンは、書き言葉により本音を表現し世界平和への道をつくる為の語り合いの場です。場は一人一人違う所にいますし、発信者が本名でない場合は、どなたかもわかりません。けれど、本音であれば心通じ合え、新たな本音が生まれ、道を作っていけるのでしょう。私は、いだきの仕事をしてから、書き言葉を書く時は特に慎重になります。話言葉も、自分では、正確にと心がけて話していますが、よく皆さんの書き込みや講演会の感想文を読んでいる時、微妙な言いまわしや、事実の正確さまでは聞いて頂けていないことも残念ながら感じています。書き言葉になると、残るものですから、更に正確にと考えます。仕事をする中で鍛えられたと感じていますが、以前、コンサートのご案内を書いてお手紙を出すと、いきなり「訴える」とすごい剣幕で怒られたことがあります。私は何が問題なのかわからずに弁護士の所に行き、手紙を見て頂きました。何の問題もない内容でした。この事をきっかけとし私は表に出す文章は、必ず事実だけを書きました。感じたことも事実ですから書きますが、先のない事は書きません。先のない感覚や感情で苦しむ時は、紙に書き出し、思い切り破り、ゴミ箱に捨てると同時に自分の苦しみも捨ててしまいます。捨てようとして捨てられるのは、いだき講座を経験しているからです。前は捨てようにも捨てられるものではありませんでした。先のある言葉を書くと、ありがたいことに未来が見えてくるのです。
カフェ哲のサロンでは、悩み事や愚痴、悪口は一切話さないことにしています。世界平和の為の話し合いのサロンという主旨と目的のもとに開催しているからです。悩みのある人は、先生には申し訳ないのですが、講座やワークショップという機会もありますので、そちらへのご参加をご案内しています。主旨と目的を理解し参加する事は、人間としての礼儀と考えているのですが、みんな大変明るいのです。
そして、書き言葉でのウェブサロンは、天のはるか向こうが語り合いの場であります。真があらわれます。自分の表現が平和に向かっているかを考えれば、自ずと何が書き込みか、ゴミ箱行きかは明らかです。私は最近書く事をおそれ、書かずにいたことがあります。けれど、何か大事なことを忘れている感覚がずっとあり、良い経験は表現しようと気づきました。
最近のことですが、あることがあり、先生から「自分が悪くないのに何故体を痛めるのか」と指摘されたのです。ドキッと音がしたと感じる程反応しましたので図星のお言葉だったのです。私は目を閉じると内面や体の状態がみえますので、調べました。光と闇が背中合わせにある状態が見えました。先生に話すと「どちらかにしなさい、何故橋渡しをしなければいけないのか」、とおっしゃった言葉が心に響きました。自分の内の理解では、明らかに悪いことをしている人に、気づいてもらおうとし、出来れば改善してもらおうと考えている自分に気づいたのです。丁度、文章にて用件を書こうとしていたので、そのことばかりを考えていました。どうするかは相手が考えることと更に先生に言って頂き、はっとしました。自分が考えることではないことをいつも考え、闇のエネルギーを体に受け自分の体を痛めていることが多かったのです。そのことに気づき、杉並の「大地の声」に臨んだ時、5月に若光王墓前にて生まれた詩がファイルに入っていました。最も澄んだ美しい光があらわれる時、この世は分けられる。正と邪と光と闇という言葉が飛び込んできました。分けるのは私ではないのです。私は最も純粋な美しい気持ちで生き、あらわす時、正は正、邪は邪としはっきりとあらわれるのです。光は光とし、闇は闇としあらわれるのです。はっきりするのです。ふと思い出しました。ご利益がある地は聖地と言われていますが、以前先生から、本当の意味のご利益とは、間違った生き方をしていれば、うまくいかず、良い生き方をしていればうまくいくというように、そのまま結果にあらわれることだとお聞きしました。私は、先生のコンサートのようだと感じました。けれど、自ずと認められ、気付き、変えていける経験が出来るところは、コンサートよりないとも感じました。
今、一人一人が美しい心で生きる時、空間は聖地になり、一人一人のあるがままがあらわれ、気付き、正していくよりない世の中と感じています。正す以外に人類には先がないと感じています。私は、杉並の「大地の声」の時にこの事に気付いてから、自分の内にある光と闇の間になっているものがほぐれ、体が急激に温かくなり、涙ばかりがこみ上げてきたのです。この経験により、私は私の内にある純粋な気持ちや、美しい心をあらわし生きることに心を尽くし、考えようと決まりました。そう生きることが一人一人が自分を活かし生きられる社会となっていくのだと深くわかりました。
体の内が変化するということは、生き方も変わり、社会に影響を与えていくという事実に今更ながら驚き、この経験が出来るいだき講座やコンサートのはかりしれない尊さに頭が下がるばかりです。そして涙があふれるばかりです。