6月17日に目白にあります明日館で開催します催し「高句麗の旅」のパンフレットの写真を見ていると、当時の風まで肌で感じ、言いようのないなつかしさを感じ、しばしその風に吹かれて浸ってしまいました。高句麗古都集安にあります好太王碑の所で詩を書いている写真です。木々の緑が輝いて、しゃくやくの花が一杯咲いていました。のどかな田園風景であり、その地で暮らす家族のぬくもりを感じながらも、遠い高句麗の時代の風を感じました。「高句麗伝説」コンサートの時は、自分が出演しますので映像を見る余裕がありません。昨日カフェ哲で開催しました5月12日の「高句麗伝説」コンサート上映会にて、当日映し出された映像を見、どの場面も胸がドキドキしてならないのです。曲が変わり、シーンが変わる度に映し出される映像を見る度に胸がドキッとする音が聞こえるように驚くのです。そしてどうしようもないなつかしさに胸が動き、涙がこみ上げてくるのです。魂の存在を感じます。私には、このことを魂と言わずして、何と言ってよいのかわかりません。胸が動くと、心が動くのです。喜びと感動となつかしさが入り混じり、感極まる時、涙がこみ上げてきます。動く力となっていきます。感動は生きる力ということがよくわかります。海外でもよく「高句麗伝説」に参加された方が感動し涙を流されます。その時、感動は健康に良いと言って喜び、毎日感動し生きていければ元気で平和な社会になっていけるという感想を多く聞きます。私は、好太王碑にて詩を書く自分の姿の写真を見る度、胸がドキッとし、胸の奥が動くのです。この写真は、いだきしん先生が撮影して下さったものです。当時、撮影も厳しく取締りがあり、先生一人だけという条件で撮らせて頂いたのでした。他の人が隠し撮りしたフィルムは、全て没収されてしまいました。今は世界遺産に認定されましたので、好太王碑はガラス張りになり、ガラス越しでしか見れず触れられない状態になっています。1998年5月の好太王碑の写真を見た時、この時からはじまった高句麗の旅でもあり、高句麗伝説でもあったと感じ、はじまりをあらわすこの写真が今はとても生き生きと蘇えっているように見えます。そして、私の胸の内にもあたかも好太王が蘇えっているように、勝ち時を知る魂の存在を感じています。今は動きの時であるとはっきりとみえ、感じています。人生ほとんど闘いだった好太王は、勝運がみえていたことは明らかであります。当時は、生死を分ける戦においては勝つことより生きる道はないことも、私にはリアルにわかります。その只中にある時、心は天と通じ、心静かに深く、あらゆるものを感じながら、「勝ち時」に的を絞り、集中していった感覚が蘇えります。全体をとらえ、一つの的に集中し動く時、心静かで余計なものがない状態でなければ、生命を落としてしまうのです。集安に行くと、戦の世でありながらも、大地は穏やかで心静かになることを経験しました。心静かで内面奥深く感じ生きる時に、志を共にする人と心通じ、場は離れていても同時に動いていけることも感じられます。伝達方法がなくても、心ひとつに生きることで多くの困難を乗り越えてきたのだと感じられます。大地や風は当時の光景を伝えてくれました。やはり魂の存在を感じるのです。1000年、2000年近く時は経っていても、その地に立ち、風に吹かれると感じられるからです。今、「勝ち時」を伝えてくれている魂と共に、内面深く感じ生き、最も必要なことに集中し、先を切り開いていく時と感じています。6月17日の「高句麗の旅」のパンフレットの写真は、そんなことを気づかせてくれ、教えてくれました。