雨に濡れる木々の緑に包まれていると、幼い頃からの生きてきた年月が一瞬にし思い起こされるようです。けやき並木が続く道にあるコーヒーショップに立ち寄り、窓側の席に座り、一人ガラス越しから外の景色を眺めていました。ここは高校時代に通っていた図書館があった所です。武蔵野の木立は、私にとり父の雰囲気そのものなのです。 そして先祖代々の歴史を感じます。人間の雰囲気と風土はひとつと私は感じます。
高麗神社や若光王の墓がある高麗の郷に行っても父を感じます。 そして高句麗発祥の地五女山に行っても又同じ空気を感じます。高句麗古都集案も同様です。 そして高句麗最後の都があった北朝鮮の大地に立っても父に会っているように感じるのです。高句麗の空気は父と同じです。今日そんなことを思いながら詩を書いていました。 その瞬間、時空を超えて、父や先祖の王と語っている様でとっても楽しく満ちたりた時を過しました。 自分の心を詩に託していく感覚も、昔からあったように感じます。一通の手紙に心をあらわし遠い地にいる人に伝えてくれる言葉は生命と感じた、遠い昔が今蘇るのです。
私は会ったこともない人と文通をすることが好きでした。 返事が来る頃になると日に何度も郵便受けを見に行くのです。 ある日ちょうど郵便屋さんが手紙を入れるところに私が行き、思わず「ありがとうございます」と大喜びし「郵便屋さんがいてくれるから私の大事な手紙が相手に届き、私の待つ手紙も届けてくれて本当にありがとうございます。 私も郵便屋さんみたいなお仕事をしたいです」と話したのでした。心から心へと一番伝えたいことを運ぶことは素敵だと感じました。 年末に郵便局に年賀状配達の区分けのアルバイトに行ったことがありました。 皆、やる気なく、仕方なくやっている空気でした。 私は、この一通の年賀状を待っている人にとったらどれだけ尊い一通でしょうかと感じ、区分けする時、とってもうれしかったのです。今日、一人で書いた詩は、私の心を届けたくて書いたのでした。 長い年月、武蔵野の地で生きてきた先祖の気持ちや父の魂にふれる大地にて、私の気持ちを書けたことがとってもうれしかったです。